せきをしてもゆとり

せきをしてひとりでも、だいじょうぶ。ほんの少しのゆとりがあれば、ね。

完全に自分のことを理解してくれる人を求めてしまう気持ちは分かるけれども、実際無理。

全ての人を理解なんてできる訳がない。これは私の了見が狭いだけなのかもしれないけれども、話しても違いがあぶり出されるだけで、お互い言いたいことだけ言ってるなーと自覚しながら過ぎていく時間に、共感を求めようとすると、ただしんどいだけな人は多いと思う。あなたと私は違うんです。だから、干渉しあわず、共存しましょう。これが大抵の場合、ベストな戦略だと思っている。みんななかよく、なんて、むり!むり!!むり!!!

対話は必要だけれども、最低限の共感と、事実の共有以上のことはできないと思う。事実の向こうにあるものの解釈は、自由だ。自由にして欲しい。 それでも、ものすごく身近にいる人から思想への理解を求められ、一日中でもその思いを語られることは、なかなかの苦行だ。挙句の果てに、なぜ分かってくれないんだと騒ぎ出すから、質が悪い。そちらにいくら善意があろうが、私自身を変化させるには、方法が間違っている。御年30、積み重ねた私という像は、そんなこんなでは変わらないもの。しかしこれはこれで、私の方から理解を求めてしまっていることには大差ないので、現実的に取る手段は、ただただ話を聞く。無心になって、修行のように。それだけだ。どうか私よ、病みませんように。右から左に流れるように、相手の熱い想いが流れていきますように。

こういうスタンスの持ち主なので、洗脳という手法をマスターしている人たちの話には昔から興味がある。人なんて早々変わらないのに、どうやってドラマティックな変身を遂げさせるのか。それこそ、まだ自分になりきらない子供の頃から伝え続けるという、分かりやすい方法から、相手の痛みを利用して行う方法まで、いろいろだ。いまのところ、一番印象に残っているのは、大学時代に読んだ『カルトの子』。私もあそこまでひどくはないが、同じように父方だけであるが新興宗教を信じる家系だったりしたし、それで悩みもしているので、他人事に思えなかったのを覚えている。そして、多少の安堵も生み出した。ああ、うちはまだ、ひどくない方なのかもしれない、と…。 なんとなく、この本が読みたくなったので。以上。